2017/05/12

総務課員の独り言

『総務課員の独り言』

総務担当のYでございます。

どうぞ、宜しくお願い致します。

 

先日、総務課に配属されたKさんより、「ブログの日程表作ったけど、Yさんも最後(・・)なんか書いたら?」と言われ、いろいろ考えてみたものの、「ネタがないです…」という言い訳をしつつ、今、パソコンの前に向かってネタを考えています。

 

皆様、ゴールデンウィークは充実してましたか?

 

私はというと、少し前に書かせて頂いた実の母親の事もあり、実家に帰ることにしました。ゴールデンウィークという事で少し早めに出ようと朝5時過ぎには茨木を出ましたが、予想通りの大渋滞。通常の渋滞に事故渋滞なんかも重なって、通常であれば3時間もあれば着くところ、倍の6時間もかかってしまいましました。

 

父親:「お~、帰ってきたんか。渋滞大変やったやろ~」

私 :「めっちゃ大変やったし…、おまけに事故渋滞も重なって…。おかんは?」

父親:「部屋にいるから、挨拶しに行ってき。」

 

母親はもともと2年前に亡くなった祖母のいた部屋で寝ていて、父親の介護を受けています。

去年、母親が倒れて病院にずっとお世話になっていましたが、この4月から実家で在宅介護をする事になりました。

その経緯はと云うと、『高額医療制度』というものがあって、リハビリも含めた治療を病院で受ける事が出来ていましたが、国から保障されているのは5か月間。小泉内閣の時に決定された事案で5カ月を超えるものについては、入院やリハビリの内容が手薄なものになります。その為、父親はケアマネージャーや介護士の方と相談して在宅介護の道を選んだんです。

 

私 :「おかん、帰ってきたわ~、ただいま。」

母親:「……。」

 

すると、父親が寄ってきて私に話しかけてきました。

 

父親:「お母さんの手、握ってみ。」

 

私は母親の手を握り、続けて、父親は母親に話しかけました。

 

父親:「お母さん、○○(私の名前)帰ってきたけん。わかったら○○の手、握り返して・・・。」

 

すると、母親の手はわずかながらに動き、私の手を握り返してくれました。手の動きはとてもわずかなものだったけど、私にはとても力強く感じとれました。3月に帰った時には、入院している母親に話しかけても大した反応は無かっただけに少し驚きました。父親は嬉しそうでした・・・。

 

父親:「お母さん、顔の表情も伺えるようになったし、こっちが話していることがわかったら、目の瞬きで応えてくれるようになってるきん。お前が話してることもわかっとるきんね。」

 

随分と変わったなと思いました。

ちゃんと意思表示があって、言葉じゃなくても会話が出来る。父親はというと、母親をとりまく環境の変化もあったし、リハビリの効果があったと少し満足げ…。

父親は初めから在宅介護を選んだわけではなかったと思います。

国の保障期間である5か月を過ぎても病院で手厚いリハビリを受けるとなれば、1カ月で○○○万円いるとの事。介護保険等の適用があってもとてもじゃないけど、まかなえません。

父親は私に言いました。

 

父親:「お母さん、元の通りに元気になってくれるんやったら、お金は関係ない。全く気にせんきん。でも、そうじゃないやろ…」

 

実家に着いた時に、ふと気づいた事がありました。父親が気に入っていた車がありません・・・。私は父親に尋ねました。

 

私 :「お父さん、車は?」

父親:「あ~、売ったよ。お母さんの軽自動車があるきん。」

私 :「……」

 

3年前に父親が「最後の贅沢やけん!」と言いながら買った車でした。

別に高級車という訳ではありませんが、安全を重視した装備はフルで付けて、とても気に入っており、「ワシが乗れんくなったら、お前にやるきん。」と笑いながら買った車でした。

 

私は売った理由を聞こうとは思いませんでした。

ましてや、「くれるって、約束したのに…嘘やん。」と思う事など全くありませんでした。

そんな事より父親が取った行動、行為は人としてとてもまっとうで、真っ直ぐで、綺麗なものだと自分なりに得心しました。

 

お金の工面をする為・・・。

母親が乗っていた大事な軽自動車だから・・・。

母親が元気になった時にまた乗れるように・・・。

 

自分が考えついた理由なんてどうでも良くって、どれが正解などと考える事自体がバカバカしくて…。

 

頭で考える必要もなく、その行動で十分だった。ぐうの音も出ないとはこの事で、何も言えず。

 

母親が元気になれば、自分も元気になれる。

自分の為、自分が主体じゃなく、相手を思う一心でやった行動は、私の心にズシンと響きました。

 

(あれ、親父ってこんな人だったっけ…?)

 

自分の持っている父親像は鬼、もしくは修羅です。(笑)

頑固で短気で何かあればすぐ怒るという印象。私にめんどくさい事やしんどい事を頼んでも、すぐにやらなければ、ワンピースでいう所の覇王色の覇気をまとう。→(わかるかな?)

 

でも、考えてみたら、父親の意外な一面を見た事があった。

私が高校を終える進路で迷っていた時だった。

 

私の家は裕福な家では無かったと思う。

中学の修学旅行の時、周りの友達は荷物を入れる為にボストンバックを買ってもらっていた。でも、私はというと、父親から「このバック、まだ使えるけん。これで行ってき。」そう言われて渡されたのはノーブランドのバック。周りの友達はアディダスやプーマ等、新しいバックを持って意気揚々としている中、私はこのボストンバックがとても嫌だった。お金はあんまりないんだろうな~と子供ながらに思っていた。

だから、高校卒業後の進路の際にすごく悩んだ。別に勉強が出来たわけではないが、高2の終わり頃、先生との面談で、

 

先生:「お前、今からでも勉強したら、大学行けると思うけど…、どうする? 先生から言わしてもらうと、大学行けば人生観が変わる、大事なものが発見出来ると思ってる。」

私 :「就職を視野に入れています…」

先生:「そうか。親はなんて?」

私 :「大学という話はしてなくて、多分就職するものだと思っていると…」

先生:「親とちゃんと話して決めたらどうだ?多分、Yにとって大事な分かれ道になるよ。」

 

そう言われて数か月が経っても親に言えずにいた。

私の予想通り、親は就職するものだと思っていて、どういった職業に就くのか等と質問されることもあり、適当に「決めていない。」と質問をかわしていた。

自分の思いはというと、大学に行ってみたかった。

 

思い切って、高3の夏前に父親に話してみることにした。この修羅を前にして話すのにはかなりの度胸が必要だった。大学と言えば怒られるんじゃないだろうか?とさえ思った。

父親を前に正座して大学の事、お願いしてみた。

 

私 :「大学、行ってみようと思ってる。」

父親:「えっ、そうなんか?お前、大学行けるんか?行きたいならやってみ。」

私 :「頭悪いから国公立は無理やきん。私立になったらお金かかるけど…」

父親:「気にせんでええわい。なんとかしちゃるきん。今からでも塾とかいかんでええんか?」

私 :「お金かかるし、別にいい。自分でやるし、ダメなら就職するから。」

 

自分にとっては、意外な反応だった。

父親は私立の大学にいくらかかるのか、知っていたかどうかわからない。ただ、父親は働いていた会社で奨学金の手配もやってくれ、大学も試験に高い受験料がかかるにも関わらず、文句も言わず幾つかの大学を受験させてくれた。気持ちは十分伝わるものだった。

 

大阪の大学に行くことになり、高校の先生が言った事は間違いなかった。

自分にとって貴重な経験となって、勉強以外にも、喜怒哀楽を共にした仲間との学校生活を送る4年間は大切なものとなった。大学に行かせて貰った事には感謝しかない。

 

大学で初めて一人暮らしをする時に父親から渡された封筒がある。父親から本当に辛くてどうしようもなくなった時に、封筒を開けろと言われたものだが、その封筒は未だに開けてはいない。

 

自分がずっと気づかなかっただけなのか?

それとも母親が倒れて、父親が変わったのか?

 

いまいち、よく分かってないけど…。それでも、鬼、修羅のイメージが根強い(笑)。でも、改めて、こういった面もあるなと思い返せた。

 

話は戻って、母親の在宅介護の事。

父親は恐らく、最初からある程度の事をわかっていたと思う。病院に毎日のように通い、リハビリの手伝いをして、リハビリのやり方をどうすればいいか?先生と熱心に話をしていた。

 

母親が倒れて、手術が終わった時の事を今でも覚えている。

私はというと、母親が生きているという安心感と同時にこれから先の不安が正直あった。手術の最中に並べられた書類の数々。不安をあおるには十分だった。

 

ただ、父親は違った。

目の前にいる母親が呼吸し、生きているという事にただ「良かった」と一言。

在宅介護を選んで、朝早くに起きて、リハビリの先生が来る準備をする。入浴の準備、シーツを変えたりする。一緒にテレビを見る。母親の大好きだった中島みゆきやテレサ・テンの音楽を一緒に楽しむ。

リハビリの先生がいない間は少しでも筋肉を動かそうと病院で必死に教わったリハビリ、マッサージをやっている。

去年と比べて、体は痩せてきたように見えたが、父親からしんどいという言葉は一切出ない。

 

2年ほど前まで祖母が生きていて、祖母はアルツハイマーを患っている中、母親と共に介護をしてきて、今は母親の介護。それまではずっと会社勤めで働いてきて、本当なら定年を迎え、今からの楽しみがあったんじゃないかって…。定年の際に会社から10万円分の旅行券を貰っているが、未だに使わずにいる事を知っている。

 

自分から見ればホント、これからだったんじゃないかって…。

でも、父親を見ても、悲観的には見えない。苦労の顔は一つもない。覇気はまとわなくても、強い父親はそのまま…。自分の苦労がちっぽけなものにしか見えてこない。

 

自分はというと、何も出来ていない。そのまま、親孝行も出来ないまま、あっという間に1年が流れていこうとして…。次の1年も同じじゃダメだなと思い、何が出来るか改めて考えないと…と思う。

 

ただ、具体化していることはあまりないが、一つ、はっきりしていることがある。

 

大学入学前に父親から貰った封筒は、これから先も開けないと決めている。

 

 

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長々と書いて参りましたが、最後までお付き合い頂き、有難うございます。

もし、また書く機会があれば、祖父、祖母の故郷となる島の墓参りに行った風景を載せられればと思います。

以上、総務担当のYでした。

これからも総務課員の独り言を宜しくお願いします。

<Y>